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笠間焼

茨城県笠間市周辺を産地とし、伝統にこだわらず自由で親しみやすいデザインを考案

笠間は、茨城県の西部中央に位置し、山に囲まれた盆地を中心に町がつくられます。奈良時代に創建された笠間稲荷神社は、日本三大稲荷に数えられ、あらゆる殖産興業の守護神として有名です。町は、時が経つにつれ、門前町、城下町、宿場町と姿を変えながら、栄えます。現在では、観光産業、御影石の石材産業、そして米を中心とする農業が行われ、一方では笠間焼として知られる窯業と貴重な文化を形成します。

笠間焼のはじまりは、安永年間(1772~81)に箱田村の久野半右衛門が、信楽の陶工長右衛門とともに登り窯を築いてからとされています。その後、半右衛門の婿養子瀬兵衛は、久野窯を継承し、日用雑器を量産しました。笠間の地は、天災や不作により疲弊した農業に代わり、窯業が新たな収入源の一つとして取り上げられました。江戸時代に生産された笠間焼は、柿釉や黒釉、糠白薬、青釉を施釉した甕、壺、すり鉢、そして高燈台(燈台)、灯明皿、貧乏徳利、湯たんぽ、油壺、紅鉢、片口、おろし皿、火鉢、灰吹き、煮染め皿など日常生活で使うものが多く、作柄もまた信楽の影響を強く受けているといえます。やがて明治になり、廃藩置県によって官窯から民窯へと移り変わり、販路も日本各地へと広がりました。

笠間地方の特質は、様々な粘土が産出されますが、なかでも、花崗岩の分解物を主成分とした木節粘土や蛙目粘土を使用します。 これらは可塑性に富み、鉄分を多く含むため、焼成すると褐色になります。この土の性質は吸水性を持つため、基本的に素焼き後に施釉し、表面をガラス質化することで吸水性を抑えます。その生産はおおむね、現土採掘→製土→成形→加飾→乾燥→素焼→施釉→本焼成という工程です。成形は、ロクロが多用され、その他には型起こしや手捻りがあります。ロクロ成形には、「切りづくり」、「玉づくり」、「切り返し」、「つぎもの」があります。特に大型の物は、二人がかりで挽き、「つぎもの」の手法がとられます。成形後の素地への加飾として、白粘土の泥漿を掛ける「泥掛け」が行われました。笠間の粘土には鉄分が含まれており、焼き上がりの赤褐色化を覆うため、明治二十年代には、甕やすり鉢の底部まで施すようになりました。白土のほかに、黄褐色の泥漿を使うこともあり、泥漿の中に器を直接浸す「どぶ付け」や「柄杓掛け」を行います。その他の主な加飾には、「刷毛目」、「彫り」、「飛びかんな」、「イッチン」、 「文様づけ」などがあります。

乾燥と素焼きを経て本焼成前の加飾としては、施釉や下絵付けが行われます。施釉は、「浸し掛け」、「流し掛け」、「はけ掛け」、「筒掛け」、「櫛目掛け」、「掻き落とし」などがあります。下絵付には、絵の具によって「線描き模様」や「ボカシ」、「イッチン」、そして筆で絵や文字を描く「絵付け」がされます。日用雑器を多量に生産する笠間の窯業では、鉄分を多く含む土で作る素地が焼き上がり後に褐色化するため、端正な絵付けよりも、流し掛けなどの施釉による加飾が中心となったことも特徴といえます。窯は、四方を山が囲む笠間の傾斜地を利用して、連房式の登り窯が作られました。ただし、その斜面の床は階段式ではなく、砂粒を厚く敷いた地すべり式であり、「砂窯」と呼ばれました。

こうして笠間焼は、江戸中期にうまれ、明治以降笠間焼の様式を確立し、戦後には、民芸的日用雑器として知られます。そしてそこには、ほかの焼き物からの影響を受けつつ発展した歴史があり、特に明治時代に、日本の近代陶芸をけん引した下館出身の板谷波山により、絵付け装飾がより究められます。つまり、絵付けなどの装飾性を制限しない笠間の気風は、新たな陶器装飾の可能性を持った陶芸家を生み出します。松井康成は、多彩な練上の技法で、伝統技術を基盤にした現代の個性豊かな作品を世に提示し、重要無形文化財保持者となりました。現代もさまざまな作風を試みる陶芸家が集まり、伝統工芸の範囲を超えた前衛的な現代陶芸も多数作られます。