かつて国産の磁器をつくることが日本人の夢でした。古伊万里が登場したことでその夢が具体的な形になりました。江戸時代に作られた古伊万里は、長い年月を経て現在に受け継がれ、たくさんの愛好家に鑑賞されてきました
伊万里港から出された焼き物「伊万里焼(いまりやき)」の名前は、当時の肥前国東部の地「伊万里」に由来します。いまから、400年以上も前に、徳川家康が開いた江戸幕府の頃に焼き物作りが始まりました。それ以前にも、肥前では陶器づくりが行われていました。その頃は、肥前をはじめ、日本中を見渡しても磁器をつくる窯は見当たらなかったといわれています。では、いったいどのようにして磁器の生産が始まったのでしょうか。
安土桃山時代、当時の明の征服を目論み、豊臣秀吉による朝鮮出兵が行われました(文禄・慶長の役)。その際に、肥前国の領主である鍋島直茂は、自らが治める地の窯業技術を高めるため、朝鮮半島から焼き物の職人を連れて帰ってきました。彼らは、肥前一帯に窯を築き、その数は100を超えたといわれます。また、この時期、有田泉山(いずみやま)では、磁器をつくるための土(磁石)が見つかりました。このように磁器をつくるための条件が備わり、日本最初の磁器生産がはじまりました。日本最初の磁器づくりに大きく貢献した陶工として、李参平氏があげられます。彼は、名高い朝鮮の陶磁器産地の出身で、日本に連れてこられ、当時の佐賀県有田の西部、小溝に住んでいました。ここで彼は長い間、窯の研究をし、ついに有田泉山の磁石発見を成し遂げました。その後、現在に至るまで、伊万里焼は、この地で発展をとげます。現在も、有田焼陶祖の神・陶山神社には、その偉業をたたえて「陶祖李参平碑」が建てられています。
古伊万里とは、伊万里焼のなかでも、江戸時代に焼かれたものをさします。また、白地に青一色でモチーフが描かれた作品は、藍染の着物を思わせることから「染付」と呼ばれました。伊万里焼が生まれるまでは、中国から青花(せいか)とよばれる作品が日本でとても人気で、当時中国から輸入していました。したがって、伊万里焼も染付を中心に磁器作りが進みます。やがて時代が変わり、中国磁器の国外輸出が内乱により途絶えますと、伊万里焼の需要が高まりヨーロッパへの輸出が盛んになります。伊万里焼の染付の青といっても、時代により色合いが微妙に異なります。明治時代になると、それまで使用していた青の顔料の呉須に変わり、ヨーロッパから伝わってきた化学性のコバルトを使います。それにより、青が鮮やかに表出するようになりました。その染付や赤絵で文様を描く青を引き立たせるのは白です。磁器の白は、着色して得られるものではなく、磁石を砕いてできた素地がもともと白いため、白くなります。その白の発色は磁石によって異なりますが、有田の職人たちが求めたのは、完全な純白というより、若干濁ったお米のとぎ汁のようなものを理想としました。酒井田柿右衛門は、濁し手(にごしで)という技法を完成させ、その後の磁器作りに多大な影響を及ぼしました。磁器をつくるためには、窯の中の焼成温度を1,300度から1,400度にまで高める必要があります。
染付(そめつけ)は、磁器の加飾技法の1つで、白地に青(藍色)で文様を表したものです。中国では、青花(せいか)とよばれ、釉下彩技法を用いて作られます。釉薬より下に絵の具が入り込むため下絵と呼ばれることもあります。素焼きをして、和紙に描いた図柄を器に写します。次に下絵を見ながら、コバルトの顔料(呉須)で線を描きます。線を弾き終えたら、だみ筆(水分をたっぷり含んだ大きな筆)を使って、中を塗っていきます。その後、釉薬を施し、本焼成に入ります。
まるで山水画を思わせるその文様は、400年という時間を経て、今もなお人々の心をひきつけます。染付には、ひとつひとつ職人の心がこめられています。