備前焼は、瀬戸、常滑、丹波、信楽、越前とともに、日本六古窯の一つに数えられる焼き物です。産地の名前をとり、「伊部焼」とも呼ばれます。
六世紀の中頃に、岡山県南東部の地域へ、須恵器の焼成技法が伝わったといわれ、近年、岡山県備前市でも、九世紀代の須恵器窯が発見され、話題となりました。延長五年に完成した延喜式に、備前国は、須恵器の貢献国として記載されます。
鎌倉時代には、壷、甕、擂鉢などが全国に先駆けて作られました。この頃の作品の特徴は、黒味を帯びた灰色っぽいものが増えます。南北朝時代には、次第に備前焼特有の、酸化炎焼成による赤褐色のものが焼かれました。
江戸時代に入ると、藩の保護により、大規模な窯が築かれ、共同体制が敷かれました。一方、焼き物も、室町時代から千利休らの影響により茶陶器や日常雑器の他に置物も作られました。また、藩の特産品として保護され、従来からの制度であった窯元六姓「木村・森・金重・大饗・頓宮・寺見」に微細工人という肩書を与えました。現在も、これらの子孫が、窯元や作家として活躍し、備前焼の中枢をなしています。
明治時代には、廃藩置県により、藩の援助が受けられなくなり、備前焼も衰退していきます。この衰退した備前焼を繁栄に導くきっかけを作ったのが、桃山茶陶の再現を目指した「中興の祖」故・金重陶陽氏(備前焼として初めての人間国宝に認定され)、それから多くの人々が努力を重ね、伝統的な作風に加え、個性豊かな作品に至るまで、ひとつひとつ丁寧に作り上げ、今日の繁栄に至りました。
備前焼の技法において、「絵付けをしない」、「釉薬を一切使用しない」という作り方は、シンプルですが、その結果表れる文様には飾りっ気のない重厚なメッセージがこめられます。また、この地に焼き物が発展した理由に、「土と燃料」が豊富にあったことがあげられます。つまり、他ではみられない鉄分の多い備前焼に最適な土と、燃料に松の割木を使うことが特徴です。こうして焼き上がる無釉焼締の作品は、堅く、その色、艶、模様などに、釉薬を使ったものとは違った多彩な変化がみられます。また、窯の中の火加減、灰のかかり具合によって、胡麻、桟切、牡丹餅、緋襷、青備前などと呼ばれる千変万化の窯変が生まれます。
「備前擂鉢は投げても毀れぬ」「備前水瓶は水がくさらぬ」「備前徳利はお酒がうまい」「備前茶碗は中風に罹らぬ」などと昔から言われ、多くの人々に親しまれてきました。
現在では、日本の最古の焼き物の一つとして、愛用されます。